皆さんは、「自分探しの旅」に出かけたことはありますか?
実は、私は今、そんな旅の途中だったりなんかします。
管理人が海外にいる理由
当サイトの管理人である「私」は、現在中国で暮らしています。
今も、北京郊外の寂しい場所にある小さな会社のオフィスでこれを書いています。今にも崩れ落ちそうなボロボロのアパートに住んでいるのですが、家ではインターネットが使えないからです。電話の線とかテレビのアンテナの線とか、そういうのも皆無ですから、どうしようもありません。職場のネット回線もプチプチとよく切断されますが、無いよりははるかにマシです。インターネットを通してのみ、私は日本と繋がれるわけですから。
当ブログのタイトルにもなっているわけですが、私は中国に移る前は台湾に住んでいました。もう何年も何年も海外生活を続けていますから、普段生きていて特にストレスは感じませんし、そもそも海外にいるという自覚すらあまりないというか、これがただただ私にとっては「普通」です。中国語は今でも一切できないので、その辺にいる人とのコミュニケーションは一切取れません。私にとっては、道行く人はみんなマネキンやロボットのようなものです。一時帰国した時だけ、周囲の人たちが人間に見えます。
それでも、夜、部屋を暗くしてもなかなか眠くならない時など、「自分は今、何しているんだろう?」、「なぜここにいるんだろう?」なんて、つい自分自身に疑問を投げかけてしまう時があります。
実は、昨晩がそんな夜だったので、思い切って文章にしてみようと思い立った次第です。
ただ、それは別に上述の疑問に対する答えに辿り着いたから、というわけではなくて、結論を端的に言ってしまえば、私が今ここにいるべき理由など存在しないということに気付いたからです。
私は、ハーフでもクォーターでもありませんし、留学や外国語の塾等に通った経験も一切ありません。しかしながら、日本での人間関係がとにかくうまくいかなくて、各種ストレスが限界に達し、とりあえず日本から出ることにしました。既に若さのかけらもないくらいの年齢でしたが、自分を知っている人が一切いない場所に引っ越すことにしました。そうすることで、何か得られるものがあったり、新しい道が開けたりするかもしれないと期待したからです。これは私にとってはある意味、「自分探しの旅」とも言えるものだったのです。
自分探しの旅で得たもの
私を知っている人が誰一人としていない海外で実際に生活してみて、私が探していた「何か」は見つかったのか?
『実は、今もまだそれを追いかけている。確かな答えと、それを追いかける自分。歩みは遅いけれど、根比べなら負ける気はしない。この手でそれを掴み取るまで、人生という名の列車の車窓からの景色を楽しみたいと思っている。』
なんて言ったら、どうでしょうか? 少しは様になりますか?
ということで、結局、何も見つかりませんでした。
もちろん、例えば台湾での生活を通して知り合いはできたし、ある程度の人脈もできました。今夏台湾を離れる際には、感慨深げな表情で「I will miss you(寂しくなるわね)」なんて言ってくれた同僚もいます。彼ら、彼女らには本当に心の底から感謝しています。ただただありがたいなと。
でも結局、自分探しの旅という観点における「答え」には辿り着けませんでした。
そして、ようやく理解できました。そんなものはそもそも存在しないのだということが。
視点とスケール
例えば、埼玉県に住んでいる人が、何らかの理由で千葉県に引っ越したとします。当人にとってはもしかしたら人生における一大イベントかもしれないけれど、客観的に見たら大した話ではありませんよね。そんな人はいくらでもいるでしょうし。
しかしながら、東京から台湾に引っ越したと言えば、やはりちょっと「普通」とは思われないのではないでしょうか。台湾から中国への引っ越しも同様でしょう。
でも、結局は視点というか、スケールの違いでしかありません。夜空で輝く星の多くは、ぱっと見点にしか見えませんが、実際は太陽なんかよりもはるかに大きかったりするわけです。どの視点で、どのスケールで語るか、ただそれだけの問題なのです。
ですから、「海外移住」と言えば大それたことのように聞こえるけれど、もしかしたら、中野から吉祥寺への引っ越しと本質的には変わらないのかもしれない、、、なんて思うわけです。
「それは台湾だからだよ」なんて思った方もいるかもしれませんが、在住時、私は日本人が一切いないようなエリアで暮らしていましたし、会社にいた日本人も私だけでした。現在の生活も同様です。つまり少なくとも私にとってはガチガチの「外国」なのです。
ですから、これがアメリカだろうとイギリスだろうと、まあ本質的には変わらないのだろうな、、、なんて私は勝手に思っています。というか、言語の面で言ったら、英語は中学校と高校で少しは勉強しましたから、まだ欧米の方がマシかもしれません。
つまり、何が言いたいのかというと、「グローバルに活躍したい」というのは「中野と吉祥寺を股にかけて活躍したい」というのと本質的にはさほど変わらないということです。
本質
まあ、そう書いたところで、「へぇ〜そういうものか、、、」なんて素直に思える方はそうそうはいませんよね。でも、本質なんていうのは案外シンプルなものです。
ただ、そこに人間がいるだけ。
本当にそれだけです。
外国や外国人に訳のわからない幻想(?)なんかを抱いている人もいるのかもしれませんが、本当にみんな同じです。毎日食事をして、働いて、笑ったり泣いたりして、誰かを好きになったり嫌いになったりして、誰かが亡くなったかと思えば誰かが生まれて、ぐるぐる社会が回るだけ。
私はブロガーでもあり、記事執筆の際には「読者を楽しませたい」という思いがありますから、「◯◯人は、、、」なんて書くことも正直あります。しかし、そういった差異なんていうのは実際には些細なものなのです。もっとも、(ネタ的には)そういった些細な差異が案外面白かったりするのもまた事実ではありますが。
ということで、よく「◯◯では、、、」とか、「私が◯◯にいた頃は、、、」なんてドヤ顔で海外経験を語る人がいるけれど、私はいつもそういう人と接する度に何とも言えない違和感を感じます。学生や駐在員等の”特別な”身分で生活を送っただけなのではないのかなと。
人間が生きる意義
冒頭の方で書いた疑問というのは、要は「自分が生きる理由」を理解したいという基本的な欲求からきているのだと思いますが、そんなものはそもそも存在しないのでしょうね。
その辺を歩いている蟻一匹に対して、その存在意義を真面目に問う人はいないでしょう。あくまでスケールの問題であって、人間も同じなのかなと。ただ存在しているというだけで、「使命」なんていうものがなければ、「存在意義」なんていうのも存在しないのだろうと私は考えているわけです。
言うまでもなく、ものすごくドライで冷たいことを書いているわけですが、冷静にじっくり考えた結果、私が辿り着いた結論がこれです。よくある「人間賛歌」みたいなものを書くのは簡単なのですが、そういう「優しい嘘」みたいなの、私はあまり好きではありません。
それでもなお、生きる上での「大義名分」みたいなものを求める気持ちは私にももちろんよく理解できます。
それに関して私なりに散々考えた結果得た結論は、「後進にバトンを渡す」ということです。これに尽きるのではないかなと。子供を育てて命をつなぐこともそうだし、直接的であれ間接的であれ、若い人たちのために何かをすること全てがこれに該当します。
私も若い頃は、自我というか自己の承認欲求みたいなものが非常に強かったのですが、そんなものは歳をとるごとにどんどん弱くなっていきます。歳をとれば、自分の代わりなどこの世界には掃いて捨てるほどいるということがわかります。そうなってくると、「自分が必要とされることの価値」を痛感することになります。結果的に、「与えることの価値」を理解するのです。そうなると、最終的に辿り着く結論は一つに絞られます。
とまあ、これが私が長きに渡る海外生活を経て学んだことです。
全部がこれで、これが全部です。
今これを読んでくださっている方の中には若者も多いでしょうから、どの程度伝わるかはわかりませんが、なんとなくでも感じるものがあったら嬉しいです。
仮にもしあなたが感じ取れているのであれば、私も少しでも価値のあることをしたくて今これを書いているということに気付くのではないでしょうか。
これが私の人生です。