元台湾在住サラリーマンの徒然なる日々

かつて台湾に数年間住んでいた日本人サラリーマンが綴る雑食系台湾ブログ。ご連絡はTwitter(https://twitter.com/superflyer2015)経由でお願いします。

台湾で同性婚を認めるアジア初の法案が可決。一方アメリカのアラバマ州では中絶禁止法が成立。混迷を極める世界。「寛容さ」とは?

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我々は一体どこに向かっているのか。海の向こう側からカオスな世界を眺めていて思うこと。

 

二つのニュース


私は普段、Twitter(ツイッター)をよく利用していまして、特に報道関係のアカウントを多くフォローしているため、タイムラインには常に様々なニュース記事へのリンクが表示されています。

 

先ほど、いつものように何の気なしにアクセスしてみたところ、インパクトのあるニュースが二つ目に入りました。

 

一つ目は、「台湾で同性婚を認めるアジア初の法案が可決」されたというニュース。

 

そしてもう一つは、「アメリカのアラバマ州で中絶禁止法が成立」したというニュース。

 

このあまりにも対極的なニュースがタイムライン上で並ぶ姿はあまりにもシュールというか、私はもはやただただ混乱するばかりでした。

 

前者は要は、「セクシャルマイノリティー(性的少数者)の権利を拡大しよう! 少数派にも寛容な社会を!」といった動きであり、後者はキリスト教系の保守派が推進する「全ての命は神からの聖なるギフト。殺すことなど許されるはずがない!」という考えに基づいています。

 

保守派はもちろん同性婚には反対していますから、非常に対極的であると言えます。また、台湾社会というのは様々な部分でアメリカを真似ている節がありますから、そのアメリカとの対比という意味で非常に興味深くもあります。

 

この手の話題に詳しくない方も多いでしょうから、これらのニュースに関して以下、順番に軽くご紹介したいと思います。

 

台湾と同性婚問題


LGBT、もしくはセクマイ(セクシャルマイノリティー)などと呼ばれている性的少数者の社会における各種権利関係の問題は、近年世界中で積極的に議論されているわけですが、日本や台湾でも同様です。

 

そして、関連する諸問題の中でもやはり要と言えるのが「同性婚問題」です。要は、同性間での婚姻を法的に認めるか否かという問題であり、権利拡大を訴える活動家にとってはこれが一つのゴールとも言えるものになっています。

 

私個人としての意見は過去記事にありますからここでは省略しますが、同性カップルでは「子供を作る」ことが生物学的に不可能である、という厳然たる事実があり、「そもそも家族とは何か?」という婚姻や家族の定義そのものにも直結しますから、これは非常に複雑に入り組んだ問題であると言えます。

 

やはり保守派は同性婚には反対の立場を取っているわけですが、世界的なトレンドは「少数派に寛容な社会を!」ですから、同性婚は認められる方法に強い風が吹いていますし、私は日本でも認められる日が必ず来ると確信しています。

 

今回アジアで初めてこの同性婚を認める法案が可決されたわけですが、台湾はこれまでこの問題に関しては「進んでいる」とよく言われてきました。実際に住んでみるとわかるのですが、街中ではゲイカップルやレズビアンカップルをごくごく当たり前のように目にします。例えば、男性同士が手を繋いで歩いていたり、少し人通りの少ない場所で女の子同士がキスをしていたり、そんな光景は台湾では一般的なのです。

 

「台湾にはゲイやレズビアンが特に多い」と言う人がいますが、これが正しいのかは私にはよくわかりません。個人的には、「日本では隠して生きている人が多いだけ」なのではないかと思っています。

 

現地に何年も住んでみてわかったのですが、台湾人というのはそもそも他者にあまり干渉しようとはしない傾向にあります。例えば、親しくない人でも平気で年齢や婚姻状況、勤め先や給料について聞いてきたりはするのですが、それはただフランクなだけであって、自分と比較して嫉妬したり優越感を感じたりするわけではありません。あくまで「自分は自分」といった感じなのです。台湾には社会全体を包み込む非常に独特な空気感がある気がします。

 

とまあそんなわけで、私としては、今回のニュースを目にしても正直特に驚きはありませんでした。

 

アメリカの中絶禁止法


それでは次に、アメリカのアラバマ州で中絶禁止法が成立したニュースの方に移りたいと思います。

 

これは文字通り、妊娠した女性が人工妊娠中絶をするのを禁止するものであり、「生死に関わる深刻な健康リスク」がある場合を除き、強姦(レイプ)や近親相姦による妊娠であっても中絶は禁止とするかなり厳格な内容になっています。なお、中絶をした場合、女性は罪には問われませんが、手術をした医師には10年~最大で99年間の禁固刑が科されることになっています。

 

日本人の中には、「なぜダメなの?」と、そもそも禁止するべきと考える側の意図が理解できない方も多いかと思いますが、上の方で書いたように、これは主に宗教的な理由に起因しています。

 

「キリスト教」という宗教は日本でも比較的よく知られていますし、おそらくは当ブログの読者さんの中にもクリスチャンはいらっしゃるかと思います。私の身内にもいますし、外国人の同僚の中にも多くいます。

 

そんなキリスト教なのですが、皆さんがご存知であろう「カトリック」と「プロテスタント」以外にも様々な派生や分岐があり、教義や厳格さにはだいぶ幅があります。

 

例えば、厳格な場合であれば、中絶どころか避妊すら禁止です。要は、宗教的な理由でコンドームを使用できないキリスト教徒というのも世界にはたくさんいるのです。

 

他には、既に他界した私の親戚のクリスチャンの女性は、宗教上の理由から離婚ができないため、若くして別居となった後、数十年の月日を一人で過ごしました。

 

良い悪いの話ではなく、日本人にも比較的よく知られているキリスト教であっても、かなり厳格なルールがある場合が少なくないのです。

 

今回、どうやらアラバマ州議会には共和党に属するキリスト教保守派の男性議員が多かったようで、民主党議員の反対虚しく可決に至ったようです。

 

中絶賛成派の団体などが近々アラバマ州に対して訴訟を起こすと言っているようなので、今後どうなるかはわかりませんが、兎にも角にも、これもまたアメリカという国の現状なのです。

 

アメリカと言えば「自由の国」。その自由を宗教が制限しているわけで、「信仰の自由」とその他諸々の自由、また社会全体の「寛容さ」など、案外それぞれが独立して存在しているのではなくて、競合の結果矛盾が生じることがあるということなのかもしれません。

 

例えば、あなたに娘がいたとして、ある日レイプされて妊娠したとします。娘のお腹の中の子を「神からの聖なるギフト」だと思えるでしょうか?

 

こういったことすら成立してしまうということ自体が、アメリカが「自由の国」であることを象徴しているのかもしれませんが、私には理解できません。

 

番外編


ここまで読み進めると、「台湾社会は寛容」、「アメリカにはまだまだ女性差別が残っている」といったような印象を持たれるのではないでしょうか。

 

実は先ほど、こんな話も読みました。なんでも、最近オーストラリアで女性から男性への暴力が問題になっているのだとか。男性が女性に暴力を振るえば傷害事件ですぐに逮捕ですが、逆の場合はほとんど罪には問われないようで、これはもはや逆差別なのではないか?と最近問題視されるようになったそうです。

 

台湾は確かに差別のない誰にでも寛容な社会ではありますが、個人的には男性が萎縮した社会にも思えます。当ブログでも以前ご紹介しましたが、台湾のカップルたちに見られる過度なレディーファーストは有名ですし、私は在住時、街中で若い女の子が彼氏をバシバシ叩いている姿をよく目にしました。「暴力」とまでは言えないのかもしれませんが、胸に引っかかる違和感を感じることが多かったです。

 

少し個人的な経験も付け加えておこうと思います。「差別」と言えばやはり歴史的によく知られているのが「黒人差別」なわけですが、そんなものは現代の世には存在しないと私は思っていました。しかし先日、ヨーロッパの某都市を訪れた際にケニア人に恐喝され、黒人を見る目が大きく変わりました。

 

もう一つ書くと、先日某国でインド人のグループと一緒になり、その中の男性数人が握手を求めてきたので順番に握手をしたのです。そしてその流れでそのグループの中にいた女性にも手を差し出した瞬間、「あっ、やってしまった、、、」と思いました。女性はほんの一瞬の間の後手を引き気味で軽く差し出してきたため、私も引くに引けず本当に軽くだけ握手をしましたが、何と言うか、後悔やら苛立ちやらが混じった虚しい気持ちになりました。インド人女性にももちろん色んな人がいます。向こうから手を差し出してくるケースもあります。ただ、人によっては握手程度であってもスキンシップはウェルカムではないのです。

 

「寛容さ」とは?


以上、全部引っ括めて、「寛容さとは何か?」という問題を考えるきっかけに少しでもなれば幸いです。

 

私はもう歳も歳ですから、これまでの人生でそれなりに色んなものを見てきました。しかしながら、これに関しては未だに全然わかった気になれません。

 

外国人の知り合いが比較的多いので、信仰に厚い人たちもたくさん知っていますが、「他者への寛容さ」という面では、宗教は時にかなり厳格にこれを制限します。

 

女性は基本的に守られるべき存在だと私は考えていますし、やはり過去記事で書きましたが、私は女性がむしろ男性よりも優遇されるくらいでちょうど良いとすら考えています。ただ、酒に酔った女性がハイヒールで男をボコボコに殴り、酷い怪我をした男性が「性別が逆だったら今頃刑務所の中だ」なんて言っているのを見ると、何も言えなくなってしまいます。

 

誰にでも寛容でありたいとは日頃から思っていますが、私だって人間ですから、個人的な経験にはどうしても影響を受けますし、そもそも国や民族によって文化や慣習が違ったりするため、個別に知識を頭に詰め込むのもなかなか大変です。

 

法律が改正され、今後日本には大量の外国人労働者が流入してきます。例えば、あなたが飲食店の店員だとして、ベジタリアンやビーガンの外国人客から英語で「オイルにミートが含まれているかどうか」を聞かれたとします。これに嫌な顔一つせず、というかむしろ爽やかな笑顔で正確に答えることがあなたに求められるわけです。もし適当なことを言ったら、場合によっては洒落にならないことに発展する可能性もあります。

 

「郷に入っては郷に従え」と言いたくなる気持ちはわかります。だから私には未だによくわからないのです。寛容であるとはどういうことか。寛容な社会というのはそもそもどんな社会なのか。

 

昔の私は、「誰からも好かれる人」になりたいと強く思っていましたが、最近では考えが変わり、「信頼できる数人から真に大切にされる人」になりたいと思うようになりました。結局のところ、皆自身の信条ベースで生きているわけで、私がそれに合わせようと思ったら私は自身のそれを犠牲にしなければなりません。そしてそういうことを続けていると、今度は「中身のない人」と言われるようになってしまう。それであればもう、好きなように生きよう、なんて思ったりもするわけです。器用な人とか、モチベーションの高い人ほど生きづらい時代なのかなと、最近ではそんなことを思ったりもします。